月山富田(がっさんとだ)城について

概要

月山富田城は安来市広瀬町富田に位置し、飯梨(いいなし)川右岸の月山(標高190m)を中心にして築かれた複郭式の山城である。城郭は1㎞にも及び、塩谷(しおたに)口、お子守(こもり)口、菅谷(すがたに)口の3つの入口がある。周囲は断崖絶壁が多く、防衛上、軍政統治上も欠くことのできない立地条件を備えており、中国地方における中世城郭の代表的な城跡として重要視されている。
保元、平治の頃に平氏の武将によって築城されたと伝えられているが、文献で最も早く現れるのは明徳2(1391)年である(「明徳記」)。尼子、毛利、吉川、堀尾の各氏が歴代城主となっているが、最も栄耀栄華をきわめたのは中国地方屈指の戦国大名となった尼子氏の時代である。堀尾氏が慶長13(1608)年に松江城へ本拠を移すまで、山陰地方の軍政上の一大拠点であった。

昭和9年には「史跡富田城跡」として国史跡に指定された。また近年には日本百名城や日本五大山城にも選ばれており、歴史雑誌では全国の山城第1位にも輝いている。

城の構造

飯梨川右岸の月山を中心にして築かれた山城。西方の飯梨川と東方の急峻な山々によって大軍は容易に近づくことができない。七曲りと言われる急勾配の登城路を経てたどり着く、三ノ丸、二ノ丸、本丸から成る山頂部の曲輪群が詰めの城にあたる。しかし実質的な守りの要は麓からの登城路の集まる山中(さんちゅう)御殿である。山中御殿とそこから延びる尾根沿いに連なる花ノ壇や太鼓壇(たいこのだん)、千畳平(せんじょうひら)などの広大な曲輪群が城の防御機能を高めている。尼子氏の後、毛利氏や吉川(きっかわ)氏、堀尾氏により、石垣や櫓など、城の改築が進められた。現在見られる遺構の多くは毛利氏以降、安土桃山時代から江戸時代初期のものである。

歴史

1391 山名満幸の代官塩冶駿河守が富田城について語る(『明月記』)。
1467 応仁の乱起こる。出雲・隠岐守護京極持清は東軍、石見守護山名政清は西軍となる。この頃以前に尼子清貞、持久から守護代を引き継ぐ。
1468 清貞、十神山城主松田備前守と戦う。
1476 松田三河守などによる能義郡土一揆が起こる。
1508 京極政経(政高)、吉童子丸に守護職を譲る。この頃尼子経久が事実上の守護権を継承か。
1540 尼子詮久、毛利元就を討つため富田城を出発し、郡山城を攻める(郡山合戦)
1541 詮久、出雲へ撤退する。詮久、名を晴久と改める。経久死去。
1542 大内義隆、出雲攻略のために周防を発つ。大内義隆による富田城攻め。
1543 月山来攻の大内義隆大敗し、出雲を退去。
1552 晴久、将軍足利義輝より、出雲・隠岐のほか、因幡・伯耆など中国八か国の守護に補任される
1554 晴久、新宮党を滅ぼす
1556 晴久、毛利氏を破り石見銀山を奪取
1562 山吹城主本城常光が毛利氏に降伏し、石見銀山が毛利氏の支配下になる。毛利元就、出雲国へ侵攻する。
1564 毛利氏、月山富田城を包囲する
1566 尼子義久が富田城を開城し毛利氏に降伏。義久と弟の倫久、秀久は安芸へ送られる。
1567 天野隆重、富田城在番となる
1568 富田(毛利)元秋(元就5男)、富田城在番を命じられる
1569 尼子勝久、山中鹿介らの尼子再興軍が出雲へ侵攻、月山富田城を攻撃
1570 山中鹿介ら尼子軍と毛利軍が布部山で戦い、尼子軍敗れる
1581 羽柴秀吉の鳥取城攻めに対し、毛利輝元が富田城に在陣する
1585 毛利元秋、月山富田城で病死する。末次元康(元就8男)、毛利輝元より富田城在番を命じられる。
1586 末次元康、月山富田城に入城する
1591 吉川広家、出雲2郡・伯耆3郡・隠岐一国などを与えられ月山富田城に入城
1592 豊臣秀吉、朝鮮へ出兵(文禄の役)。広家も従軍し朝鮮に渡る。
1597 秀吉、朝鮮へ再出兵(慶長の役)。広家、蔚山城の戦いで活躍。
1600 関ヶ原の戦い起こる。家康率いる東軍が勝利。吉川広家、周防国岩国へ転封される。堀尾忠氏が父吉晴とともに出雲、隠岐国主として入城。
1604 堀尾忠氏死去
1607 松江城の築城始まる
1608 堀尾吉晴、建設中の松江城内に居を移す
1611 吉晴、死去。松江城完成。
1615 一国一城令発布。この頃富田城廃城か。
1666 飯梨川大洪水。現在の広瀬町の街付近を流れていた飯梨川が氾濫し流路を西寄りに変え、城下町は川底に没した。
1934 国史跡に指定される(史跡富田城跡)
1966 この頃から飯梨川川底の城下遺構が露出し、発掘調査が行われる(富田川河床遺跡)

見所(景観)

春には千畳平の桜やツツジが咲き誇ります。秋になると山頂のカエデの紅葉が見事です。
山頂部から西方に広瀬町の街並みが一望できます。また晴れた日には南方に中国山地の山並み、北方には安来平野から中海、島根半島を望むことができます。

見所(歴史)

山中(さんちゅう)御殿

大手門を上がったところに広がる3,000㎡あまりの平坦地。石垣に囲まれた2つの大きな曲輪を中心に構成され、かつて城主の居館があったと推定される。主要な3つの登城路が合流する防衛の要でもあった。

七曲り

山中御殿から山頂部に至る急勾配の軍用道

三ノ丸

山頂部に築かれた曲輪、周囲には石垣がある

二ノ丸

三ノ丸の東側に一段高くなってつながる曲輪。発掘調査で多数の建物跡の柱跡が発見され、高級陶磁器類が出土している。

本丸

大堀切を挟んで二ノ丸の東側にある広大な曲輪。東端には古代から鎮座する勝日高森神社が存在している。

勝日高守(かつひたかもり)神社

本丸南端に鎮座し、素戔鳴命を祭神とする。奈良時代に編纂された『出雲国風土記』には、勝日高社(かつひのたかやしろ)として記載されている。

山中鹿介幸盛記念碑

本丸北側の土塁上に建つ。明治44年、鹿介の333回忌の記念として建立された。

花ノ壇

発掘調査の結果、柵跡や建物跡二棟が発見され、主屋及び侍所として建物が復元されている。

太鼓壇(たいこのだん)

千畳平から南東へ一段登ったところに位置する。城下に時刻を知らせるための太鼓櫓があったと伝わる。

山中鹿介幸盛祈月像

太鼓壇に昭和53年に建てられた鹿介の銅像。三笠山にかかる三日月に祈った伝承に基いて、三笠山の方角に向けて建てられている。

関わりのある歴史上の人物

尼子経久(あまごつねひさ)

出雲守護代尼子清貞の嫡男。家督を継承した後には、室町幕府と主君である京極氏に反する行動を取ったために守護代を解任された。その後守護代に復帰すると、さらに勢力を拡大して戦国大名へと成長を遂げ、尼子氏繁栄の礎を築いた。
知略と武勇双方に優れた武将であったといわれているが、一方で『塵塚物語』によると家臣が経久の持ち物を褒めるとどんな高価なものでも与えてしまったといい、「天性無欲正直の人」であると記述されている。

尼子晴久(あまごはるひさ)

尼子経久の孫。幼くして父の政久の死去により、祖父の後見を受けて尼子家当主として成長する。周防の大内氏、安芸の毛利氏と中国地方の覇権を争って石見銀山を手中に収めた。さらに出雲・隠岐のほか、因幡・伯耆など中国地方八か国の守護に補任されるなど、尼子氏の全盛期を創出した。内政的には一族である尼子国久ら新宮党を粛清して権力の一元化を進めるなどの改革を行ったが、永禄3年12月に47歳で急死し、以後尼子氏は衰退していく。

山中鹿介幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)

尼子家臣。尼子義久、勝久に仕える。永禄9(1666)年に義久が毛利氏に降伏した後、幸盛らは尼子一族の勝久を擁立し、毛利氏に対抗する勢力を集めて尼子氏再興の兵を挙げる。出雲、伯耆、美作、因幡、播磨へと転戦し、ついには織田信長と連携する。しかし天正6(1578)年、播磨国上月城の戦いに敗れ捕虜となり、護送中に備中国高梁川の阿井の渡しで殺害された。
武勇に優れ「山陰の麒麟児」の異名を取り、尼子十勇士筆頭に挙げられる。また「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と尼子家再興を三日月に祈ったと伝えられ、江戸時代以降、忠勇の鏡として称えられている。昭和11(1936)年には小学国語読本に鹿介を主人公とする「三日月の影」が収録され、昭和20年まで全国で使用された。

安来市では戦前から命日に月山富田城に登りその功績を称え供養する「幸盛祭」が行われるなど、地域の人々により顕彰活動が続けられている。

吉川広家(きっかわひろいえ)

吉川元春の3男。豊臣秀吉の命により天正19年(1591)に富田城主となる。文禄・慶長の役にも従軍し蔚山(うるさん)城の戦い等で活躍する。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、石田三成率いる西軍に属しながら、徳川家康率いる東軍に内通し、東軍の勝利に貢献する。戦後は周防国岩国へ転封となる。富田城は広家が城主の頃に石垣が築かれるなど近世城郭へと大改修されたとみられる。また、新たな拠点として米子城の築城にも着手している。

堀尾吉晴(ほりおよしはる)

尾張国の土豪であったが、織田信長、豊臣秀吉の下で武功を上げて大名へと成長する。隠居後に嫡男で当主である忠氏が関ヶ原の戦いでの戦功を賞されて出雲隠岐24万石を与えられ、忠氏とともに富田城に入城した。その後忠氏が急死したため、孫の忠晴の後見となり、新たな居城として松江城を建設した。

月山富田城跡の見学

出発点 山麓の歴史資料館または山中御殿下の駐車場から徒歩で出発。
まず資料館で富田城の歴史を学び、登山道を確認しパンフレットを入手するのもお勧め。
※ご注意:9月23日はサミット及びフェスティバルのため、歴史資料館と山中御殿下の駐車場は利用できません。臨時駐車場をご利用ください。
服装など 靴は歩きやすい物がお勧めです。服装や持物などは登山用のものでなくても登れます。
歴史資料館には貸出用の杖があります。
所要時間 山中御殿から七曲りを経て本丸に至る山頂部の所要時間は約60分。
さらに尾根上に連なる花ノ壇や太鼓壇、千畳平など各所の曲輪を巡ると約30分。